時計台ガイド ~時計台のあゆみ~

時計台、正式名称は「旧札幌農学校演武場」

時計台の愛称で全国に知られている札幌市時計台は、1878(明治11)年に札幌農学校の演武場として建設されました。札幌農学校は、北海道大学(1918(大正7)年設立)の前身で近代技術を導入し北海道開拓の指導者を養成する目的で開校しました。時計台は、農学校生徒の兵式訓練や心身を鍛える体育の授業に使う目的で建設され「演武場」と呼ばれました。

★時計台(演武場)建設の構想

1871(明治4)年、開拓使次官 黒田清隆が北海道開拓のためのプランを求めて訪米、その際に開拓使顧問として、アメリカ合衆国農務長官ケプロンを招へいしました。ケプロンが農学校の必要性を提言したことを受けて黒田清隆は1872(明治5)年、札幌農学校のためアメリカ人教師の雇入れを政府に伺い、その結果、クラーク博士は1876(明治9)年にアメリカ合衆国マサチューセッツ農科大学学長から札幌農学校初代教頭に赴任しました。博士は、札幌農学校の教育方針をマサチューセッツ農科大学を規範とし、学問はもちろんキリスト教を基礎とする人格教育に重きをおきました。また、博士はアメリカ南北戦争に陸軍大佐として従軍した経歴を持っており、生徒の心身を鍛える武芸科を設置し、兵式訓練や体育の授業を行う「武芸練習場」を建設することを考えていました。しかし、博士は8ヶ月あまりの滞在で翌年4月「Boys be ambitious」(青年よ大志を抱け)の有名な言葉を残し帰国しました。

  • ホーレス・ケプロン
    【ホーレス・ケプロン】
  • 黒田 清隆
    【黒田 清隆】
  • 初代教頭 クラーク博士
    【初代教頭 クラーク博士】
  • 2代教頭 ホイラー
    【2代教頭 ホイラー】
★時計台(演武場)の建設

1877(明治10)年クラーク博士のあとを継いで教頭となったW・ホイラーが基本構想図を作り、開拓使工業局主席技術者安達喜幸の設計、監督で1878(明治11)年10月16日に完成しました。費用は、当時のお金で3,869円16銭3厘でした。2階は、兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や中央講堂として使用され、1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室として使われました。

時計台(演武場)は、完成したとき時計がつけられていなく、授業の始終業を告げる小さな鐘楼(しょうろう)のみでしたが開業式に出席した開拓長官黒田清隆の発案で、時計の設置が決まりました。

  • 創建当時は時計がついていなく、時を告げる小さな鐘楼がついていました。
     
  • ホイラー教頭の基本構想ホイラー教頭の基本構想
    【ホイラー教頭の基本構想図】
★時計塔の設置

1878年11月25日教頭ホイラーが「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」をアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計会社に注文しました。

1879(明治12)年8月札幌に到着した機械が予想以上に大きく、すでに造られている鐘楼に設置出来ないことがわかりました。 時計の設置には建物のおおがかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や東京のどこかの建物に設置する考えもありました。しかし、1881(明治14)年5月演武場に設置することが決まり、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化してこの年8月日本で24番目になる時計が設置されました。改修費は当時のお金で1,329円かかりました。

もしこのとき、豊平館や東京のどこかの建物に時計がつけられていたら、ほかの建物が「時計台」と呼ばれるようになったでしょう。時計台の時計塔部分が大きくバランスの悪い建物と言われるのは、このような事情によるものですが、現在ではこの姿が多くの人に親しまれています。

  • 時計機械は5層構造になっており、一番上の鐘から錘が下がる1階までが時計の機能を果たしています。
  • 時計塔が設置され、今の時計台と同じ姿になりました。天文台で恒星の子午線通過を観測し時計台の時刻を補正しました。
★札幌農学校と時計台(演武場)

時計台は、札幌農学校の演武場(屋内体育館)や中央講堂、講義などに使われました。クラーク博士は、時計台で生徒を教えることがありませんでしたが、博士の教育精神が受け継がれたゆかりの深い建物といえます。1880(明治13)年にクラーク博士から直接教えを受けた第1期生13名の卒業式が時計台で行われ、その後農学校が1903(明治36)年現在の北海道大学の地に移転するまで多くの卒業生が時計台から旅立ちました。時計台の鐘は、クラーク博士の教育精神とともに札幌農学校そして北海道大学の精神となっているともいわれ、農学校卒業生だけではなく北海道大学の卒業生からも愛されています。

  • 1892(明治25)年の札幌大火のとき生徒が屋根に登り火の粉を払い、類焼防止に努める様子です。時計台への深い愛着を感じます。
  • 1899(明治32)年佐藤昌介、南鷹次郎、宮部金吾教授が農学校卒業生として初めて博士号の学位を受け祝賀会が時計台で行なわれました。
★時計台で学んだ農学校の卒業生
  • 宮部 金吾
    【宮部 金吾】
  • 新渡戸 稲造
    【新渡戸 稲造】
  • 内村 鑑三
    【内村 鑑三】

農学校はクラーク博士の教育方針により、農学、工学、科学、水産学などの学問だけではなく、キリスト教を基盤とする人格教育にも力を注ぎました。クラーク博士から直接教えを受けた1期生には伊藤一隆、佐藤昌介、大島正健など、クラーク博士の帰国後入学した2期生からは内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、廣井勇、町村金弥などがいます。その後も高岡熊雄、松村松年、有島武郎、森本厚吉、半澤洵など近代日本を代表する思想家、研究者、技術者、教育者が巣立ちました。農学校の多くの卒業生は、国内各地で教職に就き、日本の教育の発展につくしました。

★札幌市民とともに歩んだ時計台

時計台は、農学校の一施設として存在しただけではなく1888(明治21)年に札幌の標準時時計に指定され、農学校の大時計として市民に親しまれてきました。

1903(明治36)年に農学校が現在の北海道大学の場所に移転し、1906(明治39)年に演武場そのものは札幌区が買い上げ、解体せずに曳屋で現在地に移転をしました。

  • 【明治13年の札幌農学校】
  • 【現在の位置】

元の場所の歩道上に「時計台跡地」の石碑があります。

1911(明治44)年から1966(昭和41)年までは第2次世界大戦中とその後の一時期を除き図書館、講堂とし読書、勉強や文学、政治、経済、学術などの講演会など市民の教育、文化の中心施設の役割をはたしました。

また、時計台は,1923(大正12)年高階哲夫作詞・作曲の「時計台の鐘」や有島武郎の「星座」を始め多くの文学や歌謡曲などにも登場します。

多くの市民に愛されてきた時計台は、1970(昭和45)年国指定重要文化財に指定され、1996(平成8)年には、環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されました。時計台は、所有者の札幌市と市民の献身的な奉仕によって今日まで守られてきました。1995(平成7)年から4年間にわたって修復工事をし、現在は資料館・ホールとして活用しています。

私たちは、札幌市民の心のふるさと時計台を大切に守り、後世に伝えていきます。

  • 【勉強のため図書館へ入館を待つ人々】
    1957(昭和32)年頃
  • 【館内の様子】
    1957(昭和32)年頃

札幌市時計台へは

★所在地
札幌市中央区北1条西2丁目
TEL:011-231-0838
FAX:011-231-0804
★交通機関
JR札幌駅南口徒歩10分
市営地下鉄南北線、東西線、東豊線大通駅下車市役所側出口徒歩5分
★開館時間
8時45分~17時10分
(入館は17時まで)
★休館日
第4月曜日
(第4月曜日が祝日の場合は翌日)
年末年始
(12月29日~1月3日)